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東京地方裁判所 昭和45年(行ウ)196号 判決

原告 甲野花子

右訴訟代理人弁護士 猪俣浩三

同 野田宗典

被告 厚生大臣

斎藤邦吉

右指定代理人 近藤浩武

〈ほか四名〉

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

(原告)

「被告が昭和二八年一〇月三〇日付で原告の戦傷病者戦没者遺族等援護法(以下「援護法」という。)に基づく遺族年金及び弔慰金の請求を却下した裁定を取り消す。」との判決

(被告)

主文第一項と同旨の判決

第二原告の請求の原因

一1  原告は、亡甲野一郎(以下「亡甲野」という。)の妻である。

2  亡甲野は、昭和一六年七月下旬ころ召集を受け、陸軍第一七軍第六師団歩兵第二三連隊に所属する軍人として従軍中、昭和二〇年八月ころ戦地であるブーゲンビル島において死亡した。

3  原告は、亡甲野の遺族として、昭和二七年七月一三日付で被告に対し援護法に基づく遺族年金及び弔慰金の支給を請求した。

4  被告は、昭和二八年一〇月三〇日付をもって、「亡甲野の死亡事情が援護法の条項に該当すると認められない」という理由で原告の右請求を却下する旨の裁定(以下「本件処分」という。)をした。

二  しかし、本件処分は、次の理由によって違法であるから、取り消されるべきである。

1  本件処分は、処分当時信用すべき資料がないのに、亡甲野の死亡が公務によるものではないと判断した点において違法である。

亡甲野は、後記のとおり苛酷な戦場であるブーゲンビル島において軍人として従軍中死亡したのであるから、公務により死亡したものと推定されるべきであり、被告は、これを否定する明確な資料を持たない以上、遺族に対し援護法による援護を拒否すべきではない。被告は、本訴に至って、証人丙川三郎の証言内容を亡甲野の死亡の事情として援用して主張するが、被告が丙川証人の存在を知ったのは、原告が本訴を提起した後のことであって、本件処分当時、被告の手許の資料としては、死没者留守名簿があったにすぎない。そして、右死没者留守名簿は、昭和二〇年八月一二日当時まだ亡甲野の所属する第七中隊の中隊長の地位になかった有村一郎が同中隊長の資格を冒用して同日付で作成した亡甲野の死亡証明書なる虚偽文書を根拠として作成されたものと思われる。本件処分は、この留守名簿に「処刑死」の記載があるというだけの薄弱な根拠に基づいてされたものであって、違法である。

2  被告は、亡甲野が軍法会議において敵前党与逃亡罪により死刑に処せられたと主張するが、そのような事実は存在しない。昭和二〇年八月ころブーゲンビル島において被告主張のような軍法会議は存在しなかった。仮に、軍法会議自体は開かれたことがあったとしても、亡甲野に対し被告主張のような判決の言渡しがあったという事実はない。亡甲野に対する判決書なるものは当初から存在しない。

したがって、右処刑の事実を理由に亡甲野の死亡が公務によるものではないとする本件処分は、事実を誤認した違法のものである。

3  仮に、被告主張のとおり、亡甲野が、軍法会議において死刑の判決を言い渡され、刑の執行を受けて死亡したとしても、原告は、次の理由により、援護法上の援護を受くべき遺族として取り扱われるべきである。すなわち、

(一) 軍法会議の法的評価

日本国憲法は、戦争の反省の上に生まれ、恒久平和主義に基づき、戦争放棄を格調高く掲げる等、明治憲法とはその基本原理を異にする。そもそも、軍法会議は、明治憲法下、天皇の軍隊の軍規維持のための手段的、政治的裁判であるから、軍法会議の判決が、基本原理を全く異にする日本国憲法のもとで、そのまま修正されることなく、二十数年後の今日まで有効なものとして生き続けるということは考えられない。これらは、旧帝国陸海軍の遺物として、明治憲法とともに姿を消すべきものである。

(二) 時期

昭和二〇年八月一二日といえば、わが国の敗戦の三日前であり、既に陸・海軍は事実上崩壊し、政府は、同月一〇日午前六時連合軍に無条件降伏を通告していた。また、現地では、オーストラリア軍は、日本降伏のビラを飛行機で散布していた。しかし、第一七軍は、最後の玉砕陣地構築に専念し、すべての者が死を直前にして、飢餓と恐怖から異常な心理状態にあり、逃亡など問答無用の雰囲気にあった。

(三) 悲惨な状況

第一七軍は、勝算のないタロキナ作戦を強行して連合軍の前に一方的に敗れ、手持食糧を費消し、飢餓発生を決定的にし、昭和一九年秋までに約二万人の日本軍人が餓死した。その後、司令部など移動の少ない後方部隊は農園栽培により食糧事情が安定したが、第一線の作戦参加部隊は、農園を拓いて耕作する余裕もなく、引き続き悲惨であり、わずかな後方補給、草根木皮や敵陣切込みによる食品奪取で日々をしのぐ連続であった。苛酷な戦闘部隊と平静な日々の後方部隊が極端に対照的に併存したのである。こうして、連続二年にわたり、第二三連隊は、密林中で飢餓とマラリヤに襲われながら常に第一線部隊としてオーストラリア軍と対じし、戦闘を強いられた。いわば、客観的環境、主観的精神緊張において、人間性の極限をはるかに越える状態を二年にわたり強いられた。その結果「どうせ死ぬなら一度いもの葉を腹一杯食って死にたい」と願った者もあったほどである。そして、第一三、第二三、第四五の各歩兵連隊は、九〇ないし九五パーセントが悲惨な死を遂げている。

(四) 軍法会議の現実

日本軍が敗色濃厚となった昭和二〇年二月、法改正により、臨時軍法会議は、専門の法務官が関与しなくとも審理できるようにした。被告の主張によっても、本件の軍法会議は、大学法学部出身ということだけで法務官職務取扱に任命された者と、何ら法律知識のない職業軍人とにより構成され、特別の法廷はなく、第一七軍司令部の一隅で、弁護人の立会もなく行なわれた。したがって、正当な法律手続により、正当な法律判断がされたか否か、非常に疑問である。また、上訴も許されず、死刑執行は、特例により軍司令官の指揮で行なわれた。前述のような特殊な状況、異常心理のもとに、職業軍人としての特殊な道義観により、逃亡などけしからんと決めつけ、審理らしい審理もせず、死刑の判決がされ、即時に死刑の執行が行なわれたのである。

また、ブーゲンビル島においては、将校の犯罪は不問に付され、軍法会議に起訴されるのは下士官、兵だけという不平等な取り扱いが行なわれ、しかも、最前線では、軍刑法を犯した者は、特攻隊に入れられるか自決させられて、戦死ということで処理された。軍法会議にかけられるのは、憲兵が後方で捕えた者だけである。

(五) その他

戦後、大赦令により、これら軍法会議による過去の有罪判決は無効となっている。また、同じブーゲンビル島で戦後判決を受けて獄死した者は、すべて昭和四七年七月二八日の閣議に基づき叙勲されたが、これらの者と亡甲野は全く同じケースで、違いは後者が終戦の三日前というだけのことである。

敗戦という現実、その後のわが国の実情及び国民感情に鑑みれば、無謀な戦争の犠牲者たる亡甲野及びその遺族たる原告に今なお敵前逃亡の汚名を着せることは、道義に反し許されない。

以上の諸事情に鑑みれば、本件軍法会議における審判は本来の裁判の名に値しないものであり、その判決自体、既にその効果を否定されるべきである。そうであれば、亡甲野は、軍人として公務で死亡したものとみなされるべきであって、被告は、原告に対し援護法に基づく援護を拒否すべき理由はないから、原告の請求を却下した本件処分は違法である。

第三被告の答弁及び主張

一  請求の原因一の各事実は認める。

二  同二の1について

援護法による遺族年金及び弔慰金は、同法の定める資格要件を備えた者に対してのみ支給されるのであるから、請求者において右の資格要件を明らかにしなければならないことは当然であり、同法の規定のもとにおいては、死亡者の死亡の事情がどのようなものであったかについては、少なくともその職務遂行性が認められる程度にこれを明らかにすべき責任が請求者にあったものと解さざるを得ない。

被告は、本件処分当時、亡甲野の死亡の事情について、援護法の定める遺族年金及び弔慰金の支給事由に該当すると認め得る資料が皆無であり、かえって、亡甲野の死亡は処刑死であると認められる資料しか存在しなかったので、原告の請求を却下したのであるから、原告の非難は当たらない。

三  同二の2について

亡甲野は、昭和二〇年八月一二日ブーゲンビル島ムグアイにおける第一七軍臨時軍法会議において、陸軍刑法七六条所定の敵前党与逃亡罪により死刑の判決を言い渡され、同日刑の執行を受け死亡した者である。したがって、原告は、援護法による遺族年金及び弔慰金を支給されるべき遺族に該当しないことが明らかであるから、原告の請求を却下した本件処分に違法はない。

原告は、亡甲野が軍法会議の判決に基づき処刑された事実は存在しない旨を主張するのみで、亡甲野の死亡の事情がどのようなものであって、援護法所定のいずれの支給事由に該当するものであるかについて何ら主張しないから、その主張自体本件処分の違法理由の指摘として不十分なものである。

四  同二の3について

原告の主張は感情論にすぎず、援護法の解釈論としてはとうてい成立し得ないものである。すなわち、

1  ブーゲンビル島における戦闘経過

昭和一八年初頭からブーゲンビル島は第一七軍(通称沖部隊)の警備担当区域とされ、同島南東部のムグアイに軍司令部が置かれ、第一七軍隷下の諸部隊が同島に配備されていた。同年一〇月末同島西海岸のタロキナ地区に米軍が上陸し、飛行場の建設に取りかかった。第一七軍は、これを撃退するため同年一一月から翌年三月にかけていわゆる第一次、第二次タロキナ作戦を実施したが、作戦は不成功に終ったばかりでなく、多大の兵力を損耗し、後方基地であるラバウルとの連絡補給路を完全に断たれるに至った。そのうち、タロキナ地区の米軍はオーストラリア軍と交代し、昭和二〇年一月以降オーストラリア軍は、タロキナ地区から東方に向って活発な侵攻を開始し、同年六月ごろにはムグアイの西方約三〇キロメートルのミオ川の右岸附近まで迫った。この攻撃正面の守備を担当していた第六師団の各連隊は、ミオ川を背にして南北に展開し、オーストラリア軍の進撃を防ごうとしたが、彼我の兵力の差が圧倒的であるため、各連隊とも主として夜間の切込攻撃によって辛うじて戦線を支えていた。

このころ、亡甲野の所属する歩兵第二三連隊第二大隊第七中隊は、中隊長以下わずか四〇名に減じていた。亡甲野は、昭和二〇年六月二六日同中隊の軍曹乙山二郎とともに大隊本部に赴き第七中隊員の二日分の食糧を受領してもどる途中、右乙山と共謀のうえ戦場を離脱して逃亡し、ジャングル内を約四〇日間放浪した末、同年八月七日乙山とともに第一線のはるか後方に姿を現したところを発見され、逮捕された。なお、第七中隊は、同年七月上旬ごろ中隊長以下全員戦死を遂げたのである。

2  軍法会議の審判及び刑の執行の状況

亡甲野に対する軍法会議の審理裁判及び刑の執行は、当時施行されていた陸軍刑法及び陸軍軍法会議法の規定に従い、いずれも適法に行なわれたものであって、非難されるべき余地はない。すなわち、亡甲野及び前記乙山の両名は、第一七軍臨時軍法会議検察官により、陸軍刑法七六条所定の敵前党与逃亡罪につき公訴を提起され、右両名に対する同軍法会議の公判は、昭和二〇年八月一二日午前中にムグアイの臨時法廷において開廷された。同公判廷において、亡甲野及び乙山の両名は公訴事実を認め、審理は三時間程度で結審となり、若干の休廷時間の後、同軍法会議は右両名に対し検察官の求刑どおり死刑の判決を言い渡した。臨時軍法会議その他の特設軍法会議の裁判は一審限りであるため、右判決は即時確定し、軍司令官の命令により、同日午後ムグアイにおいて右両名に対する死刑が執行された。

3  昭和一二年七月以降八年有余に及ぶ戦争は、当時の全国民に対し大なり小なり被害を与えたのであって、この意味ですべての国民が戦争犠牲者であるといえないこともない。戦争犠牲者に対しては、できるだけ広い範囲にわたって援護の措置を講ずることが望ましいのはいうまでもないが、援護の必要性の程度は強弱さまざまであり、また、援護の実施については、国の財政事情からの制約や国民感情に対する配慮の要請があるため、どのような範囲についてどの程度の援護措置を講ずべきかは、絶対的な基準はなく、専ら国会の立法政策的判断にまかされているものと解しなければならない。そして、敵前党与逃亡罪により戦地において死刑に処せられた者の遺族と、最後まで自己の職務を尽して負傷疾病により死亡した者の遺族とを比較した場合、援護の必要性の程度においてとうてい同一視し得ないことは、何人も認めざるを得ないであろう。

ところで、援護法の制定及びそれ以後の同法の改正の経過をみると、援護の範囲は、対象、公務傷病の範囲及び遺族の範囲の三面にわたり、援護の必要性の程度の強いものから逐次比較的強くないものに、また傷病と公務との関連性が明白なものから逐次比較的明白でないものに、法改正のたびごとに拡大されてきたということができる。もとより、原告のみならず、原告と同様の境遇にある刑死者の遺族も、戦争犠牲者であることに変りはないのであって、これに対する援護の必要性のあることも否定できない。さればこそ、昭和四五年法律第二七号附則五条において、事変地又は戦地における在職期間内の行為に関連して当該事変地又は戦地において死亡した軍人軍属であった者の遺族に対しても、当該死亡が戦後の大赦令の赦免の対象となった罪以外の罪に当たる行為に関連するものであることが明らかでないと援護審査会が議決した場合には、遺族年金及び弔慰金を支給することと規定され、原告も右規定に基づく遺族年金及び弔慰金の支給を現に受けているのである。

4  原告は、ブーゲンビル島の第一線の悲惨な状況を強調するが、敵前逃亡が当時犯罪とされていたことは否定できない。また、逃亡罪等が戦後大赦令により赦免されたからといって、亡甲野の処刑がさかのぼって不法になるいわれはない。

第四証拠関係≪省略≫

理由

一  請求の原因一の各事実は当事者間に争いがない。そこで、以下、本件処分の適否について判断する。

二  まず、原告は、軍人の戦地における死亡は公務によるものと推定すべきであることを前提とし、本件処分当時被告の手許には、亡甲野の死亡が公務によるものではないことの明確な資料はなかったから、かかる不明確な資料に基づき原告の請求を却下した本件処分は違法である旨主張する。

しかし、本件処分のように、援護法に基づく遺族年金及び弔慰金の支給事由がないことを理由として、支給の請求を却下した処分に対する取消訴訟においては、右処分当時の援護法のもとにおいて、請求者に右遺族年金及び弔慰金を支給すべき事由があったか否かという、客観的な支給事由の存否が審判の対象となるのであって、処分当時処分庁が処分の根拠とした資料に基づいて裁判所が処分庁と同一の判断に到達し得るか否かということによって、直ちに処分の適否を断ずることは許されないのであり、本件においては、原告に対する遺族年金等の支給事由がないと認められることは後記のとおりであるから、原告指摘の推定の有無を論ずる迄もなく、原告の右主張は失当であるといわなければならない。

のみならず、原告が「薄弱な根拠」と主張する死没者留守名簿については、次のような作成の経緯が認められる(ただし、その成立自体は、その方式及び趣旨により公務員が職務上作成したものと認められるから、真正な公文書と推定される。)。

1  ≪証拠省略≫によれば、次の事実が認められる。

(一)  陸軍は、昭和一九年一一月「留守業務規程」(同年陸亜普第一四三五号。)により、外地、内地の各部隊に留守名簿の様式を示してその調製を命じ、これに各部隊所属人員の現況及び留守宅関係事項を常に明確にさせておくべきものとし、右名簿をもって、人事、恩賞、留守宅家族遺族の援護等を処理するに当たり、その根基とすべき重要書類とした。

(二)  ところで、陸軍においては、戦時、陸軍軍人、軍属が死亡又は生死不明となった場合の報告処理について、「戦時死亡者生死不明者報告規程」が定められており、数次の改正を経たが、昭和二〇年一月一日から施行された右規程(昭和一九年陸達第七六号。以下「報告規程」という。)によれば、拘禁中の者が死亡した場合には、当該拘禁機関の長が死亡者の所属部隊長にその事実を通報するものとされていた(そして、≪証拠省略≫によれば、本件についてもかかる通報があったものと認めることができる。)。

(三)  そして、右通報を受けた死亡者の所属部隊においては、右通報に基づき留守名簿の当該死亡者の行を朱線をもって抹消し、その上部欄外にその理由を記載することによって、死亡の事情が明らかにされることになっていた。

(四)  戦後、陸軍は、外地部隊の復員に伴う留守業務処理のため、各部隊に対し、「外地部隊留守業務処理要領」(昭和二〇年陸普第一八八〇号)を発し、留守業務部に転属する者に留守名簿の写、死亡者連名簿及び生死不明者連名簿を携行帰還させること、右死亡者連名簿及び生死不明者連名簿には、前記報告規程に基づく処理の未済のもの及び処理済であっても内地到着の疑わしいものについては関係書類を添付すること、部隊の復員が完結した後留守名簿を留守業務部に提出することを命じた。

2  右事実に≪証拠省略≫を総合すれば、前記死没者留守名簿は、死亡者留守名簿、死亡者連名簿(いずれも、その方式及び趣旨により公務員が職務上作成したものと認められるから、真正な公文書と推定すべきである。)などとともに、戦後第一七軍歩兵第二三連隊において、部隊の復員に伴う留守業務処理として、部隊の留守名簿又は前記報告規程に基づく通報書類に準拠して調製されたものと認められ、特に同名簿中の亡甲野の死亡記事が単なる憶測や風説によって記載されたものと認めることのできるような証拠はない。≪証拠判断省略≫

そうすると、前記の死没者留守名簿は、亡甲野の死亡事情を伝えるものとして、相当高度の証拠価値を備えた公文書といわなければならず、原告が右文書を前述のように非難するのは失当である。

三  次に、原告主張の第二の違法理由(請求の原因二2)について検討する。

1  ≪証拠省略≫に後記2において認定の各事実を総合すると、亡甲野(当時陸軍軍曹)は、昭和二〇年六月二六日ブーゲンビル島シシガキロ附近の戦闘中、同じ中隊の乙山軍曹とともに敵前党与逃亡し、同年八月七日捕えられ、同年八月一二日ムグアイにおける第一七軍臨時軍法会議において、陸軍刑法七六条、七五条所定の敵前党与逃亡罪により死刑の判決を言い渡され、同日同判決に基づく刑の執行により死亡した事実が認められ(る。)≪証拠判断省略≫

2  原告は、右裁判及び処刑の事実を争い、殊に、亡甲野に対する第一七軍臨時軍法会議の判決書が現存しないことを強調する。

(一)  確かに、≪証拠省略≫によれば、昭和二一年三月第一七軍司令部がその復員に際し持ち帰った第一七軍臨時軍法会議の裁判書の原本は、すべて現在福岡地方検察庁に保管されているところ、その原本綴りには、昭和一九年六月二〇日から同年七月三一日までの間及び昭和二〇年一一月二八日から昭和二一年一月三〇日までの間の日付のある裁判書が編綴されているにすぎないことが認められる。

しかし、第一七軍が復員に際し、右軍法会議が審判したすべての裁判書の原本を持ち帰ってきたものであるという事実を認めるに足りる証拠は何もないから、前記原本綴り中に判決書が編綴されていないものについては何らの審判も行なわれたことがないと直ちに推断することは許されない。

(二)  のみならず、≪証拠省略≫を総合すれば、第一七軍臨時軍法会議は、昭和一九年六月ラバウルから派遣された法務官が同年八月帰任した後、後任法務官の派遣がなかったため、軍法会議を構成することができず、審判活動を中断していたが、昭和二〇年法律第四号(同年二月一〇日公布即日施行)により陸軍軍法会議法(大正一〇年法律第八五号)の一部が改正され、特設軍法会議においては長官は陸軍の将校に法務官に代り裁判官の職務を行なわせることができることとなったため、第一七軍司令官(同臨時軍法会議長官)により大学法学部卒業の丙川三郎(当時陸軍主計中尉)が法務官職務取扱を命ぜられ、その関与のもとに軍法会議が構成され、昭和二〇年五月ころから同年八月二二日ころまでの間、審判を行なっていたこと、右期間中、同軍法会議において判決を言い渡す際には必らず判決書を作成し、検察官は判決書の謄本を添付して刑の執行指揮をしていたこと、昭和二〇年六月三〇日から同年八月二二日までの間に同軍法会議において無期又は有期懲役刑に処せられ、復員後も引き続き長崎刑務所に収監され、刑の執行を受けた者が七名存在すること、前記丙川三郎が関与した期間中に同軍法会議において逃亡の罪により死刑に処せられた者が少なからずあったこと、以上の事実が認められる。しかして、前記裁判原本綴り中には、右期間中に言渡しのあった判決書は全く編綴されていないことは前認定のとおりである。

(三)  右事実に、≪証拠省略≫を総合すれば、終戦後、第一七軍臨時軍法会議の録事職務取扱を命ぜられた鈴木義治は、前任者の林忠夫から、前示丙川三郎が関与した期間中の同軍法会議の裁判原本綴り及びその他の裁判記録(その中に亡甲野の名前が記載された書類もあった。)など軍用行李一個に納めたものを引き継ぎ保管していたが、昭和二〇年九月ごろ、第一七軍がファウロ島の捕虜収容所に移されることになった際、ブーゲンビル島エレベンタ海岸において、オーストラリア兵二名により右書類を軍用行李ごと取り上げられ、ついに返還されなかったため、部隊の復員の際これを持ち帰ることができなかったことを認めることができ(る。)≪証拠判断省略≫

そうすると、現在、亡甲野に対する第一七軍臨時軍法会議の判決書がないとの一事をもって、亡甲野に対する裁判が行なわれなかったことの証左とすることはできない。

3  なお、≪証拠省略≫によれば、亡甲野の本籍地を管轄する長野地方検察庁及び長野県中野市においては、亡甲野に関し前科通知を受けた旨の記録のないことが認められるが、前示のとおり、部隊の復員に際し判決書が持ち帰られなかったことを考えると、右の点は怪しむには足りない。

以上の次第であるから、原告の主張は、とうてい採用することができない。

四  次に、原告主張の第三の違法理由(請求の原因二3)について検討する。

1  原告の主張は、要するに、亡甲野の死亡事情が前記認定のとおりであったとしても、敗戦を経た今日のわが国の情勢及び日本国憲法の基本理念のもとにおいては、明治憲法下における軍法会議はその存在自体否定されるべきであり、また、当時の現地の状況及び軍法会議の審判の実情に鑑みれば、亡甲野に対する軍法会議の判決は否定されるべきであるから、被告は、亡甲野の死亡を公務上のものとみなして、原告に対し援護法に基づく援護を行なうべきであるというのである。

2  しかしながら、亡甲野に対する前示軍法会議の審判及び刑の執行が、当時の法制のもとにおいて明らかに違法、無効なものであったと認めるに足りる証拠は何もない。そうであれば、亡甲野が前認定のとおり法律に基づく裁判及びその執行により死亡したという事実――この事実を、日本国憲法下の法感覚及び現今の国民感情をもってどのように評価するかは別として、右のような事実の存在それ自体――は、今日においても、何人もこれを動かし得ないものといわなければならない。また、戦後、大赦令(昭和二〇年勅令第五七九号)により、昭和二〇年九月二日前に陸軍刑法七五条及び七六条の罪を犯した者は赦免され、亡甲野に対する前示軍法会議の判決は、その言渡しの効力を失ったことが明らかであるが、それによって、既に行なわれた刑の執行が不存在又は不適法になったわけでないことは、いうまでもない。

3  ところで、本件処分当時の援護法によれば、軍人又は軍人であった者の遺族は、同法二三条一項所定の事由に該当する場合に遺族年金を、同法三四条一項所定の事由に該当する場合に弔慰金をそれぞれ支給されるものと規定され(ただし、昭和二八年法律第一八一号附則二〇項所定の支給事由は、本件に関係しないことが明らかであるから、以下の考察から除外する。)、右各規定の適用に関し、公務傷病の範囲については、援護法四条一、二項及び同条の二の規定が設けられている。そして、本件のように、敵前党与逃亡罪により、法律の定める手続に従い死刑を執行され死亡した場合が右援護法の定めるいずれの支給事由にも該当しないことは、右各規定の文理上からも、また、後年の援護法の一部を改正する法律(昭和四五年法律第二七号)附則五条の規定の趣旨に鑑みても、明らかなことといわなければならない(この改正規定に基づき、原告が現に遺族年金及び弔慰金の支給を受けていることは、≪証拠省略≫により明らかである。)。

そして、原告主張のごとき法制の変革その他諸般の情勢に基づき、敵前逃亡のような旧軍刑法の罪及び軍法会議における裁判、処刑の事実を、今日どのように評価し、関係当事者をいかに遇するかは、結局、国民の総意に従い決定すべき立法問題であって、本件に適用すべき援護法の前記各規定の合理的解釈を越えて原告の処遇を求めることに帰する原告の主張は、所詮裁判所のよく応え得るところではない。

原告のこの点の主張も採用するに由ないものである。

五  以上のとおり、原告の本件処分の違法理由の主張はすべて失当であって、本訴請求は、その理由がないものといわなければならないから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 杉山克彦 裁判官 加藤和夫 石川善則)

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